マドリヤ「らしさ」について②
- Category:代表・落合のブログ
落合です。
前回、人材の組み立てについての話をしましたが、
人材に限らず「人間の個性に目を向ける」という根底の価値観はマドリヤの家づくりの中にも含まれている気がしてきましたのでそのことについて書いてみたいと思います。
なんだか「個性に目を向ける」と書くと高尚なコンセプトのように見えるかもしれませんが、どちらかというと、「あなたとの違いを知り、それを味わい、何かを感じたい」という表現のほうが合っているかもしれません。
最近、自分が思わず笑ってしまうタイミングってほかの人と違うときもあるなと思うようになってきました。私にも自分は普通である、と素朴に思いこんでいた時期もありまして、40代も半ばになってくるとさすがに自分を客観的にみる目線もできてきたわけです。
具体的にいうと
「え、私はそうは感じないけど、そう感じる人もいるのか!人間って多様で奥深え…」
というポイントを見つけたとき、周りを置き去りにしてリアクションしている自覚がありますね。ただ、相手は日常の話をしているわけですから、見方によっては大変失礼でもあるわけで、「なぜ興味深いと感じたのか」のご説明をワンセットで提示するという礼節スキルは大人ですから身についています。
設計事務所というと、絶対的な価値判断のモノサシがどこかに大事にしまってあって、それと照らし合わせてものを作っていて、合わない人はおかえりください、というイメージってないですか?マドリヤを外から見たときに、もしそう見えていたとしたら誤解を解いてまわりたいです。
「こんな相談をしたら怒られそうだけど勇気を出していってみよう、って思ってました」と初回のご相談の際に言っていただいた方が過去にいましたが、全くそんなことはありません。(そんなことなかったからそううふうに言っていただけたわけです)
私は「担当者とお客様の個性が化学反応してできる家」を純粋に作れたら素敵だと思っています。構造や断熱など基本性能が良くない方に個性的である必要はありませんが、率直に「こういうのがいいと思う」と、作り手と住まい手がチームになって相談して作った家が一番いい。もしかしたらデザインの観点でいうと破綻しているかもしれないようなことも、チャーミングな個性として見れたらいいなと思います。
社内ではよく、「ミクロな生活のシーンを大事にしよう」と掛け声のように言い合っています。引いたマクロな視線で完成度が高いかどうか。それも大事だけど、手紙を書くときに手元に届く明かりとか、おしゃべりしながらふとおしりを乗せられる窓枠とか、そういう視点で価値を組み立てていこうよという意味です。その一つ一つに「そのチーム(担当者とお客様)でしか語れない物語」が込められていたら、これ以上に価値を感じ、うれしく感じることはありません。
マドリヤのおうちを「作品」という言葉で指し示してくださる方もいますが、「作品性に全体が奉仕している」という状態にはあまり興味がなくて、価値の集積で結果的に表現されたイメージ・詩情・雰囲気が大事で、それを関係者の一人として味わいたいと思っています。
なので、いつも見学会の告知で「〇〇の家」のようにテーマをつけたりもしますが、あれは最初から決まっているわけではなくて見学会のタイミングでつけています。おお、こういう感じの家になったか→じゃあ〇〇の家と呼ぼう。という感じです。
以上の通りで、(こういういい方はすこし乱暴ですが)マドリヤは住宅のデザインがゴールなのではなく、一人ひとりの価値観や考え方の差こそ価値とし、そこで起こる会話や生活の価値を、もっといえばそういう「家づくりの時間」「暮らしの時間」を、ありあわせの一つの建物の形式に整えてお出ししているのだと思ってもらえたらうれしいです。
なんだか長くなりましたがそうですね、
「住まいについて、どれだけ一般的でない思いでも自由に言っていい場を用意していますので、気軽に相談会にお越しになってください。」
としておけばブログの広告的機能としては及第点だと思いますので、これで終わりにします。
落合